にぎやかだった家族。そんな幸せが一瞬で奪われた。東日本大震災では、同居していた家族を一度に失った人たちも多い。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の高橋善夫さん(68)は妻や子ら4人を亡くした。あれから半年。涙に暮れた日々を乗り越え、同じ地区だった人が集まる仮設住宅の自治会長を引き受けた。
地震直後、高橋さんは町内会長として避難を呼び掛け、津波に襲われる寸前に公民館に逃げ込んだ。しかし、母、姉、妻に加え、勤務先から帰宅しようとしていた次男も命を落とした。
ずっと一緒だった家族4人が突然いなくなる。現実を受け入れられなかった。独立し、仙台市内にいて無事だった長男と安置所を回るだけの日々。妻の実家で泣きながら過ごした。誰とも会いたくなかった。「同情されても家族は戻ってこない」とふさぎ込んだ。
仮設住宅の説明会に出たことが転機となった。「生きてたのか」。町内の顔見知りたちが無事を喜んでくれた。「みんな心配してるぞ」。そう言われ、避難所を回ってみた。そこで何度も聞かされる。「介護を手伝ってくれた」「世間話を聞いてもらった」。妻の京子さん(61)への感謝の言葉だった。
京子さんは民生委員を務めていた。高橋さんがなる予定だったが、勤務時間が減ることを心配した職場から引き留められ、その代わりを引き受けた。
面倒見が良く、気配り屋だった。38年前の結婚式。高橋さんの父は病床で出席できなかった。「花嫁衣装を見せに病院へ行こう」。京子さんの提案に驚いたが、父は目を細めて感謝した。20日後に亡くなったが、安らかな最期だった。
小児まひの持病があった姉には、実の姉妹のように接した。自力で歩けない姉を編み物学校に連れ出し、表情を明るくさせた。
京子さんの遺体は3月下旬に車の中から見つかる。いつも相談に乗ってあげていた女性と一緒だった。心配で様子を見に行き、逃げ遅れたのか。妻らしいな、と思った。
「お父さん、後は頼んだよ」。京子さんから、そう言われているような気がした。自分も長く町内会の役員をしてきた。生まれ育った故郷と、そこで暮らす人たちの再生を手伝う。それが生き残った自分の役目なのではないか。「このまま終われない」と気持ちを切り替えた。
7月、推されて約130世帯が入居する仮設住宅の自治会長になった。大切な人を失った入居者の気持ちが、高橋さんには分かる。「ここにいるのはみんな家族。家に閉じこもらず、声を掛け合おう」と伝えたかった。他の仮設住宅とは異なる決まりを作った。
回覧板は回さず、連絡したいことはすべて集会所のボードに書いた。「来なきゃ何も分かんねえから」。高齢者が立ち寄り、初対面同士で会話する姿を見かけるようになった。集会所には鍵をかけず、日中はいつでも開放する。風通しが良く広いので、祖母が孫に絵本を読み聞かせたり、母親が赤ちゃんに添い寝する場にもなった。
震災前の閖上は、朝市や祭りの度に団結する活気のある町だった。あのにぎわいを取り戻す一歩を、ここから踏み出したい。高橋さんはそう願っている。【安高晋】
毎日新聞 2011年9月10日 12時27分(最終更新 9月10日 12時33分)
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