太平洋戦争開戦の約5カ月前の1941年7月、泰阜(やすおか)村が作成した報告書「経済更生要旨ト村概況並(ならび)ニ分村運動ノ経過」には、国、県当局との生々しいやり取りが記録されている。村は38年度から3年間で旧満州(現中国東北部)に満蒙(まんもう)開拓団計300戸を順次、分村移民させる計画に取り組んでいた。
39年12月23日、千代村役場(現飯田市千代地区)。泰阜村など当時、同様に移民を進める各村担当者が顔をそろえた。国や県の移民政策の担当者が、各村に計画完了を1年繰り上げ、39年度中に大量の移民を送り出すように厳しく迫る。
「できなければ、補助金を削減する」
各村にとって、移民を条件にした国の「特別助成金」や「低利資金貸し付け」は命綱だった。養蚕業が主体の村々は29年の世界恐慌で生糸価格が暴落し、深刻な財政難にあえいでいた。
一方、満州移民の国策を強硬に推し進める国は、更に「アメ」をちらつかせる。
「(満州へ)人を出せば、金はいかようにも融通す」
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県南部の泰阜村(38年の人口約5000人)は養蚕の村だった。29年、農家の平均養蚕収入は754円だったが、同年の世界恐慌を境に30年は3分の1の269円に激減した。経済回復は進まず、38年時点で村民1戸当たり平均686円の借金があった。当時、小学校は、弁当を持ってこられない「欠食児童」であふれた。
村が32年、独自策定した「経済更生計画」は養蚕からの転作や、農家経営の見直しなどが主で「移民」には全く触れていなかった。ところが、31年の満州事変後、政治的発言力を強めた軍の圧力で、広田弘毅(戦後、A級戦犯で死刑)内閣は36年、翌37年から20年間で、満州に日本人農民を「100万戸計500万人」移民させる国策を決定する。国に従い、泰阜村の計画も変容する。
村史「満州泰阜分村」(2007年、村編さん)の編集委員長を務めた元村助役の宮島義寛さん(85)は「耕地が狭く、食糧の自給もままならない。農家の次男、三男の身の振り方に困る村だった」と当時の事情を語る。
村は移民の見返りに40~41年の2年間で、国から破格の助成金計1万円を受けた。当時の村の年間税収2万円の半分に当たる。しかも移民を出すことで人口が減り、農家1戸当たりの耕地面積が増えて生産性が上がり、更に食糧の消費が減って村内で自給自足できるとの目算があった。
「『満州に行け、一挙に問題が解決する』。いつの間にか、村の計画は満蒙開拓が柱になった」。宮島さんの見方だ。
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県内では泰阜村を含め、富士見村(富士見町)や川路村(現飯田市)など分村移民が相次ぎ、競争が過熱した。移民の数に合わせて助成金が増えるため、泰阜村は開拓団員の村民数の「水増し工作」にも手を染めた。最終的に村は38年から6年間で計約1200人を送り出したが、うち約400人は村の募集委員が近隣の飯田市や大下条村(現阿南町)などで集めた「偽装村民」だった。
戦後、旧満州から引き揚げた元団員の中島多鶴さん(86)=泰阜村在住=は「元軍人の父(故人)は村の委託を受け『満州は王道楽土(アジア的理想国家)だ』と言って、隣の村々で募集活動をしていた」と証言する。
国策と共に歩んだ村の経済更生計画は、45年8月の敗戦で破綻した。敗戦直後、旧満州では混乱の中、栄養失調などで多く団員が落命し、戦後、帰国できたのは半数以下の約500人だった。【満蒙開拓団企画取材班】(随時掲載)
毎日新聞 2012年1月24日 地方版
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