原爆投下後に降った黒い雨の援護対象区域の見直しを検討している厚生労働省有識者検討会のワーキンググループは20日、「降雨域を確定することは困難」との報告書をまとめた。黒い雨の身体への影響を「評価困難」とし、精神面での影響に限定している。一度も広島で当事者の肉声を聞くことなくできた報告書に、被災者たちは声を上げる。「我々の証言を聞け」と。【樋口岳大】
原爆の爆心地の西約9キロの自宅の庭で遊んでいた。光と熱風、耳が裂けるような爆音の後、広島の空に真っ黒い雲が上がった。空から舞い落ちた紙を拾って遊んだ。しばらくして降った雨に濡(ぬ)れ、白いワンピースが黒く汚れた。汚れは粘りけがあり、母は「洗うても、洗うてもしみが取れん」と話していた。井戸の水を飲み、それで野菜を洗って食べた。
ずっと体が弱かった。足にできものができ、小学校2年くらいまでリンパ腺が腫れた。夏の強い日差しに立ちくらみがし、疲れやすかった。高校卒業後、デパートでネクタイを販売する憧れの仕事に就いたが体力が続かず、1年ほどで退職した。周囲からは「横着病」と言われた。
体調不良は続いた。97年に夫の葬儀で倒れ、慢性肝炎と診断された。「黒い雨のせいでは」と疑い、自転車をこいで同級生らを訪ねた。がんになった人や家族たちが苦しみを訴えた。しかし、当時から暮らす地域は76年に国が指定した援護対象区域の外。健康診断や被爆者健康手帳交付などが受けられなかった。02年、320人で「佐伯区黒い雨の会」を設立し、会長として区域拡大を国に迫った。
06年には肝硬変と診断された。会の仲間は次々と亡くなり、70人以上減った。会員の葬式に出るたびに「ごめんね。間に合わんかった」と涙がこぼれる。
厚労省検討会ワーキンググループが出した報告に「データじゃなく、次々と人が亡くなっている事実に目を向けてほしい」と語る。「今、国に黒い雨の被害をきちんと認めさせないと、福島の原発事故の被害もなかったことにされる」と危機感を抱く。
原爆投下時、学校近くの畑に母と妹と一緒にいた。爆心地の西約9キロ。地鳴りに驚き、とっさに通りかかった見知らぬ女性の体の下にもぐり込んだ。
真っ暗の空にほこりや紙くずが舞い、太陽が赤く見えた。空を見上げていると雨が降り出し、雨粒が口の中に入り込んだ。薄いワンピースが濡れ、草履がびしゃびしゃになった。爆風で家の雨戸は飛び、ガラスは割れ、食器は棚から落ちていた。
夕方になり、赤ん坊を抱えた若い女性が植田さんの家に避難してきた。植田さんが赤ん坊を抱いてあやすと祖母は「うつるから、いろうたらいけん」と怒った。「うつる」という言葉が頭に残り、「黒い雨に濡れたことも誰にも言ってはいけないのだ」と思った。井戸水を飲み、畑の野菜を食べた。母について救護所となった学校へ行き、洗いざらしの包帯を干すのを手伝った記憶がある。
小学校に入った頃から下痢や胃けいれん、発熱を繰り返すようになった。4年の頃には高熱が出て1年ほど難聴になった。チフスや肺炎にかかって生死をさまよったことも。祖母は「何でこんな弱いんか」とこぼした。中学の時、往診に来た医師が祖母に「この子は二十歳までよう生きん」と言うのをこっそり聞いてしまい、ショックを受けた。
19歳で結婚。ずっと体は弱く、出産は命がけだった。それでも時計商の夫を支えながら3人の息子を育て、生活のために清掃や調理、酒類販売などの仕事をしてきた。
「区域拡大」の訴えに耳を貸さぬ国の姿勢に「医療費などで苦しんでいる人がたくさんいる。本当にあったことは絶対に伝えたい」と語った。
毎日新聞 2012年1月28日 地方版
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